「浜の播磨路」を通って加古川から明石まで
                     (2014年6月14日)


浜の播磨路(Google Map)
浜の播磨路(明石観光協会)

住吉神社(Wikipedia)
 底筒男命中筒男命表筒男命住吉大神)と気長足姫命神功皇后)を祀る。伝承によれば、神功皇后三韓征伐の際、播磨灘で暴風雨が起こったため、魚住に避難し住吉大神に祈願をすると暴風雨がおさまったという。凱旋後、神功皇后により住吉大神は摂津国住吉に祀られた。大阪住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』によれば、住吉大神より「播磨国に渡り住みたい。の枝の流れ着く所に祀れ」との託宣があり、藤の枝を海に浮かべると、魚住に流れ着いた。そこで、雄略天皇8年(464年)に当地に住吉大神を勧請したのが当社の創建と伝える。

江井ヶ島(Wikipedia)
 赤根川の河口に位置する。2011年12月現在は定期航路はないが、漁業が盛んで、タイスズキが水揚げされている。

明石原人とアカシゾウ(明石市立博物館)
 アカシゾウは、明石市とそのまわりの地域から多数の化石が見つかっています。
特に1960年代までは、林崎から江井ヶ島までの海岸の崖からよく発見されました。また、明石海峡からは現在でもしばしば漁船の網にかかって引き上げられています。アカシゾウは、象としては小型で今の象と比べると胴の長さのわりに足が短く、肩の高さは大きな個体でも2mくらいでした。
 後に「明石原人」とも呼ばれることになった人類の腰の骨は、1931年に大久保町の西八木海岸の更新世の地層の崩壊土の中から発見されました。発見したのは、当時考古学や古生物学に興味を持ち、西八木海岸一帯で動物の化石や石器らしきものを採集していた直良信夫でした。国立歴史民俗博物館の春成秀爾は、人骨が化石化していたという数多くの研究者の証言や、自ら谷八木海岸で採集した剥片石器を手がかりとして、1985年に再度西八木海岸の発掘調査を行いました。調査で直良が人骨を採取したとされる地層(西八木層)から人が加工した木器が発見され、その結果、この明石の地において、6〜7万年前に旧人に相当する人類がいたことがほぼ確実になりました。

林崎漁港(Wikipedia)
 ブランド化された「明石鯛」「明石蛸」で知られる明石海峡付近、播磨灘を漁場とする。 『播磨国風土記』に記載される林潮(はやしのみなと)と同一視されている。明石海峡潮流が激しくぶつかる付近に位置していることから、良好な漁場となっている。明石市街からもほど近く、休日には一般の釣り人の姿も見られる。

魚の棚(Wikipedia)
 1618年明石城築城と同時に行われた、宮本武蔵によるとされる町割により、東魚町(現在の本町一丁目)と西魚町(現在の本町二丁目)とができた。東魚町は「東うおんたな」とよばれ主に鮮魚を、西魚町は「西うおんたな」とよばれ主に干物を扱っていた。





地図
 加古川をスタートして播磨町より海岸線に入り、「浜の播磨路」を辿って明石まで
 (太い矢印で示した地点は「明石原人」と「アカシゾウ」の発掘地点)




浜の播磨路
(西二見−江井ヶ島)




(江井ヶ島−林崎漁港)




経路
 加古川より別府鉄道(べふてつどう)あとを辿って山陽電車別府駅にいたり、そこより新幹線の高架下を辿って播磨町に至る。
 播磨町より海岸線まで南下し、海岸沿いに明石まで歩く。



 
掲載した写真

播磨町「ヨットハーバー」 住吉神社
明石江井島酒館 江井ヶ島
浜辺の住宅 明石原人の発掘地
アカシゾウの発掘地 林崎漁港
明石「魚の棚」 明石駅前



写真集

加古川−別府            写真
別府−播磨町            写真
播磨町−東二見          写真1 写真2 写真3
東二見−魚住            写真1 写真2 写真3
魚住−住吉神社          写真
住吉神社               写真1 写真2
住吉神社−江井ヶ島        写真1 写真2
江井ヶ島−中八木         写真1 写真2
中八木−藤江            写真1 写真2 写真3
藤江−松江公園−望海浜公園  写真1 写真2
林崎漁港               写真1 写真2
明石の町へ              写真1 写真2 写真3
魚の棚                 写真1 写真2
明石駅へ               写真
 



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