「ひろかずのブログ」から読み解く「国包」の歴史 |
2016年4月21日現在 飯沼博一さん執筆の「ひろかずのブログ」より「国包」に関する部分を引用させていただき、それを時系列で並べた。こうすることで、現在の「国包」という町がどのように形成されて来たががよりはっきりと見えるようになる。 「国包」の歴史に大きな影響を及ぼしてきたものは、①加古川の流れ(舟運)、②湯乃山街道(重要交通路)、そして③播州鉄道の開通(①と②の衰退原因)である。①と②により「国包」は栄え、③により歴史的要衝の地位を追われた。なお、加古川の上流からもたらされた良質な木材を用いて発達してきた、地場産業である国包建具に関する記述は「ひろかずのブログ」中には見当たらなかった。 引用方法 (1)著者である飯沼博一さんの経歴がわかる情報を引用した。 (2)ブログのタイトルと執筆年月日、そしてその要点を短く引用した。
2012-06-01
続くもので、きょうで「ひろかずのブログ」は、1719号になりました。 元中学教諭の飯沼博一さん(68)=加古川市尾上町今福=が2006年6月から、市史などを参考に各地を探訪し、執筆を続ける。 社会科の担当だった飯沼さんは定年退職後、姫路獨協大大学院で英語を学び、06年に修士号を取得。 「市史を分かりやすくかみ砕き、さらに自分の目で見て考察を加える」ことを心がけて書き、写真やイラストも添えて更新を続ける。 サイトは「ひろかずのブログ」で検索。 2009-02-27 印南郡と加古郡の郡境は加古川がその境界となった。 印南郡と加古郡が創設されたのは、聖武天皇の神亀三年(726)であるから、その当時加古川は、絵図の宗佐と国包の間、そして船町村の北を加古川は流れていたのだろう。 『風土記』(奈良時代の地誌)には、現在の八幡町あたりは望理里(まがりのさと)と呼ばれ、まさに川が蛇行していた。 嘉永元年(1225)国包村を大洪水が襲った。 流路は大きく変わった。そして、後は一面の河原となってしまった。 この洪水で、村の一部は川西へ移動した。国包村は川東の村となった。 2008-05-07 不思議なことに上荘町に属している。 記録によると国包は、もとは川西の村であった。 嘉禄元年(1225)、この地を大洪水が襲った。 そのため国包村は流され、あとは一面の河原となった。 この嘉禄の大洪水で加古川の流れも大きくかわったのである。 2009-03-16 八幡小学校の500メートルほど西のお堂でセイメイさんは祭られている。 セイメイさんについて、説明板(加古川文化財保護協会)は「・・・・家型石棺の蓋に像が彫られているもので、像容が非常に稚拙なので素人が彫ったものではにいかと思われますが記録がないので、いつ造られたものかわかりません・・・」と、ややそっけない。 2009-03-02 特に南北朝の時代、播磨と西摂津を制した赤松氏がこの道を重要視し、京都への軍事道路として整備した街道であった。 湯乃山街道は、京都から有馬・三木そして加古川へ、そこで加古川を渡り、西井ノ口・都染(つそめ)・薬栗(くすくり)・山角(やまかど)の各村を、それから志方町・姫路へと湯乃山街道は伸びた。 湯乃山街道を人々は行き交った。物や情報が動いた。 2009-05-25 国包村は、湯乃山街道(ゆのやまかいどう)と加古川が交わり、美の川にも近く、交通の要所に位置していた。 そのため、近在ではめずらしく、町場化が進んでいた。 元文2年(1737)の同村の明細帳には、家数125軒の内、本百姓74軒、水呑50件と水呑(田畑を持たない小作)の割合が多い。 具体的な職種として、大工4人、桶屋2人、医者3人、木挽6人、紺屋1人、材木屋3人、陸塩売4人、旅籠屋5人、川舟宿6人、殺生人(川漁師のこと)6人、蚕種商2人、そのほかに、高瀬船3艘、舟主2人と明細帳にある。 これらは専業ではなく、百姓の兼業が含まれていると思えるが非農業的な職業が多く、全体に加古川の舟運に係わる職業が多いのが特徴である。 2008-06-11 宗佐(現:加古川市八幡町)は、国包の土地を借りて河岸を開いて、宗佐や周辺の米などを運んでいた。 国包の河岸は、湯山街道との交差点でもあり、物流の一集散地で町場の性格を持っていた。 2008-06-13 川筋の最大の難所は国包(くにかね)のすぐ上手にあった。 美嚢川(みのがわ)が加古川と合流し、国包の北あたりは、全体が岩盤でミオ(水路)らしいものがなかった。 ここをすぎると、大きな難所は少なく、高砂までは帆走ができ、天気のよい日には鼻歌も出たという。 高砂市を歩く(13) 高瀬船(3)・国包の河岸、そして下村のアナゴ 2014-10-17 2009-05-24 江戸時代、洪水の避難場所として、この築山は築かれた。 近くから見ると、一本のように見えるこれらの木は、二本のエノキが一本のムクノキを両脇から包み込むような形で成長している。 三本あわせた木の周囲は約7メートルにもなる。がっちりと築山をつかむ根の一部が地上をはい、頼もしく見える。 樹齢は240年ほどで、市内では唯一の天然記念物に指定されている。 2009-05-24 国包のあたりは、しばしば大洪水を経験している。 特に、鎌倉時代の嘉禄(かろく)元年(1225)の大洪水は、すさまじく、国包村の東を流れていた加古川が村を全滅させ、河原にしてしまった。 築山(つきやま)は、宝暦6年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人物が、加古川の洪水で毎年のように被害にあっていた住民の避難場所として私財を投げ出して築いた丘だと伝えられている。 2009-04-30 「・・・国包は、5日も日照が続くと、ツルベで朝・夕灌漑をしなければならず、他の村からの嫁入も嫌われたという。 そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門(応親)が、美濃川(みのがわ)が加古川に注ぎ込む手前から取水する用水をつくった。 2008-05-23 近藤邸をつぶした一揆は、加古川市域の国包(くにかね)・西条・大野・寺家町へとなだれ込み、干鰯屋(ほしかや)・酒屋・木綿問屋などを襲った。 2009-04-16 『播磨地種便覧』がある。 明治の初期の各村々の田畑、山林原野そしてそれらの地価、人口等をまとめた書籍である。 明治15年の出版である。 戸 数 人 口 国包村 226戸 950人 2009-02-21 現在の上荘町・平荘町内の各地区(江戸時代の各村々)が合併して、上荘村・平荘村が誕生した。 明治22年4月1日のことである。 上荘町の国包地区のことである。川東にありながら上荘村として残った。 2007-04-29 JR加古川線は、大正二年(1913)、加古川~西脇間で開業した。会社名は「播州鉄道」であった。 大正五年(1913)、西脇まで播州鉄道は開通した。この時、国包に「国包駅」が設けられた。 そして、大正五年(1916)に国包と別所(三木市)間に三木鉄道が開通し、翌年、三木まで延長された。 三木鉄道に「国包駅」が設けられることになった。それにともなって、加古川線の「国包駅」は「厄神駅」になり現在に至っている。 2013-04-28 加古川100選 今年の4月で加古川線は開通100年になる。 加古川~国包駅の開通は(大正2年)4月1日であり、国包~西脇間のほとんどのカ所で軌道の工事が終わっており、加古川~西脇が遅れたのは、加古川の橋梁の工事が遅れたからだと言います。 それだけ、加古川橋梁は難工事であったようだ。 2009-04-22 国包村の総戸数の180戸のうち農業は70戸である。 その内訳は、自作農1戸、自作権小作農16戸、小作54戸(合計は71戸になるが報告書のまま)で、自小作も含めると驚くべき小作率になる。 争議の起きた時期(大正12年)の小作料の割合は50%を越えて、江戸時代の年貢なみであった。 小作人たちは、永久小作料の一割五分の減額を要求した。 2009-02-23 昭和28年、ほとんど進展のなかった山手三村(上荘村・平荘村・八幡村)と加古川市との合併問題は、昭和29年に動き出した。 八幡村が加古川市と合併するとなると、川東の上荘町国包地区が一緒に加古川市との合併を望むことは予想された。 つまり、上荘村の分村問題という新たな問題がおこる可能性が大であった。 2009-02-24 国包は、加古川の対岸・上荘村に属している。 明治22年4月1日の町村合併でも、国包地区は印南郡上荘村のままで残り、今日まで上荘地区として続いている。 昭和30年3月16日、調印式をへて、昭和30年4月1日、加古川市上荘町、平荘荘町、八幡町は新しいスタートをきった。 2009-02-25 国包地区の児童は、近くに八幡小学校があるのに川を渡って、二キロメートルの道を歩いて上荘小学校へ通った。 二年生までは国包に分教場があり、三年生から本校へ行った。 昭和30年4月、山手三ヵ村(上荘村・平荘村・八幡村)が加古川市に合併した。 これに伴い、小学生の通学区の問題が話し合われた。 町内会長らの粘り強い交渉が実を結び、昭和37年(1962)4月の新一年生から国包地区の児童は八幡小学校へ通学できるようになった。 |