日本経済新聞(5月2日)、私の履歴書は次のような書き出しとなっている。大分県に存在したという瓜生島(うりゅうじま)のことである。
「磯崎家のルーツはまるごと海に沈んだ。私は子供のころ祖父母にこう聞かされて育った。大分県の別府湾に浮かんでいたとされる伝説の島。
(中略)
大分市の目と鼻の先の距離にあったというが、慶長元年(1596年)7月の大地震で一夜にして海にのみこまれた。激しい揺れのあとに津波が一帯を襲い、波が引いてみると周囲12キロメートルほどの島は跡形もなく消えていたという。」
島が1日で消える? そのメカニズムは?
Wikipediaとひとつのブログを引用しました。これらの記事から推定すると、瓜生島は大分川の河口に生じた砂洲であった可能性があります。この砂洲が液状化と、津波により瞬時にして海にのみこまれたということでしょうか。
引用させていただいた地図には残念ながら高度が記されていません。きっと海面ぎりぎりの、いま温暖化でやがて海に沈むとされているモルディブ共和国のような島であったのかもしれません。
クレオパトラの愛した宮殿(クレオパトラの海底宮殿)もナイル川の運ぶ砂の上にたてられたため、水没してしまったのではないでしょうか? クレオパトラ宮殿は、かつて世界最大規模の人工湾の島に立っていたが、4世紀に起きた地震によって海中に没したとなっています。
アトランティスの例を引くまでもなく、多くの文明は陸と海の接するところで栄え、気候変動や天変地異により没します。千年後の世界地図は、そして1万年後の世界地図はどのようになっているでしょう。低地においては海岸線が陸にかなり入り込んでいるのではと想像されます。さらに、天変地異が加わっています。
瓜生島(Wikipedia)より
引用開始
伝説や昔話をもとにすると、瓜生島は大分市から400-500メートル沖の別府湾内にあり、島の周囲は約12キロメートル、人口5千人ほどと推定されている。
1699年の戸倉貞則『豊府聞書』(現存せず)によれば、瓜生島は1596年9月4日の地震によって沈んだとされている。この地震については、ルイス・フロイスが、「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と言及している。この地震は実際に起きたものであることが現在までの研究で判明しており、震源地は別府湾南東部で、マグニチュード7.0程度の地震が起きたものと推測されている。
21世紀現在、科学的調査の段階に入っているが、実在したかどうかについては諸説あり、島があったとされる場所は湾の最深位置であるとして存在を否定する説、島ではなく半島だったのではないかとする説、別府市または大分市にあたる位置にあった村だったとする説など、研究者によって見解が分かれている。また、沖の浜という港町が実在したとして、瓜生島という名称こそが、後世につけられた別名であるとする説もある。
別府湾内には、瓜生島の隣に久光島という島があって、瓜生島とともに沈んだとされる。また、日本国内では、高麗島(長崎県五島列島)や万里ヶ島(鹿児島県甑島列島)に関して、瓜生島とほとんど同じ沈没伝説が伝わっている。
引用終了
この記事からは、人が、それも大人数の人が住んでいた地域が一夜にして海に没したことは間違いないようだ。さらに、次のような記事がある。この記事はよくまとめられている。
新・地震学セミナーからの学び
12 瓜生島沈没ー日本のアトランティス物語
引用開始
再現:瓜生島沈没
調査の結果から、瓜生島沈没のメカニズムは次のように考えられる。
大分川の河口から1キロほど沖合いに砂州で陸とつながった島があった。これが瓜生島である。瓜生島の地盤は大分川の堆積物からなり水分を多量に含んだ砂質のものである。この付近から別府湾は急に深くなっている。地すべりを発生させるには十分な傾斜である。
約400年前、別府湾で直下型地震がおきた。地震と津波で島の地盤が液状化しはじめる。まず島の輪郭がにじみだし、ついには島全体の地盤が液体と同じような状態になり、海底の斜面に沿ってくずれ落ちた。
あとには砂州と島の一部が残るだけだった。この時点で何らかの理由で砂州に木柱が打ちこまれた。だがやがて砂州も島の一部も波に洗われ消えてしまった。
(このブログを書かれた著者のご意見です)
以上がその解説ですが、木の柱の件は、海底調査で海底に打ち込まれた木の柱が発見されているからです。液状化現象(セミナー255)とは、砂粒間の引っかかりが外れて液体状になってしまうことです。島の基盤は岩盤であるはずで、土台までが、砂丘のような砂で構成されていることは無いのではないでしょうか。なんでも液状化で解決してしまう安易な推理のように感じます。 新地震理論による推定は(ライブラリー11)を参考にしてください。
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