158. 天安門事件から早や20年 中国も中国の学生気質も変化急

 2009年 6月 4日掲載  2014年 3月 2日再掲


1989年6月4日に中国の民主化を叫んで蜂起した学生が、天安門で軍に弾圧されて今日で20年目を迎える。ベルリンの壁崩壊は同じ年の11月9日である。世界の潮流を受けて中国でも革命的な動きがあったことになる。

天安門事件と中国経済の発展の双方に関係したのがケ小平である。天安門事件からわずか3年後の1992年の南巡講話に中国の経済発展がはじまる。

国民服を着ていた中国人も今や背広姿と、日本の戦後60年以上の長さをここ20年と非常に短い期間で走ってきた。そしてその国力とエネルギー消費量は日本をしのぐまでになった。

時代が変わってしまった今、天安門での元学生リーダー、ウアルカイシさん(41)にいまさら帰ってきてもらっても、というのが下のニュースである。中国は変わった。いまさら人民(国民ではない)にその事件を想起させたくはないといったところだろう。

そして今、大学生の数を大幅に増やした中国においては、日本の大学生と同じく、この不況に遭遇して、卒業生は就職先を探すために奔走している。もはや、ポリティカルは中国でも表面には出ていないようである。

最近、日本の企業にも中国籍の社員が増えたことにきずいていらっしゃる諸兄もいらっしゃることと思う。中国も、そして中国人も大きく変わりつつあるのでは。



asahi.com 6月4日
天安門事件の民主化運動リーダー、マカオで入境拒否
引用開始
 89年の天安門事件当時、民主化運動を中心的に担った台湾在住の元学生リーダー、ウアルカイシさん(41)が3日、「中国政府に出頭するため」として中国の特別行政区であるマカオに入ろうと試み、当局に拒否されたことが分かった。同日深夜時点でマカオ空港に留め置かれている。
 ウアルカイシさんは中国のウイグル族で事件当時、北京師範大の学生だった。事件直後にフランスに亡命。台湾人女性と結婚して台湾に定住し、米国系企業に勤務。中国の民主化について発言を続けてきた。中国当局からは指名手配されている。
 ウアルカイシさんは、3日夜に台北で天安門事件追悼イベントに主賓として参加する予定だった。ところが「私はマカオに行き、中国政府のマカオ事務所に出頭することを決めた」「20年間家族に会えていない。出頭という方法で帰省を勝ちとる。出頭は20年前の行為が間違っていたと認めるものでは絶対にない」というメールを複数の知人あてに送り、同日午後の便で台北からマカオに向かった。
 マカオ空港でウアルカイシさんは朝日新聞の電話取材に対し「私は台湾の旅券を持っており、マカオに入る権利がある。マカオ当局は台湾に送還すると言っているが私は拒否している。私の身柄を北京へ送るよう要求している」と話した。
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六四天安門事件(Wikipedia)
圧巻でありその一部のみを引用
 六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)は、1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦の死をきっかけに、中華人民共和国の北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して、「中国人民解放軍」が武力弾圧(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺すなど[1][2])をし、多数の死傷者が出た事件である。
 1976年4月5日に周恩来が死去したときに発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別して、「第二次天安門事件」とも呼ばれる。日本において単に「天安門事件」という場合、この事件を指していることが多い。
6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装を行った兵士が配置に就いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された。
 6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した他、装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を死傷させた。
 中国共産党の発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者の多寡については数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり定かではない。また、天安門広場から完全にデモ隊が放逐されたあとに人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報があるように、事件後に中国共産党によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。
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トウ小平(ケ小平、Wikipedia)
天安門事件
 生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、ケ小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年には天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。
ケ小平の政策
 公職から退き、表面的には引退しつつ影響力を維持していた1992年1月-2月(春節)には深?(しんせん)や上海(しゃんはい)などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながると主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。
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書籍 革命寸前―天安門事件・北京大生の手記

書籍 中国大逆流―絶望の「天安門二〇年」と戦慄の未来像

第1部 二〇〇九年、「天安門闘士」との再会と対話(北京で過ごした憂鬱な日々;一番の親友だったA君との再会、ある民主化闘士の「堕落」の軌跡;不動産屋となったE君との密談、「天安門」をもう一度やるのか ほか)
第2部 「革命前夜」の様相を呈すネット上の思想と世論(中国における「思想と世論空間」の誕生;「人民網」の「強国論壇」で展開される激しい現状批判;〓(とう)小平路線との決別と改革の総清算 ほか)
第3部 「饗宴」後の中国はどこへ向かうのか(天安門事件の歴史的意味と「南巡講話」の深謀遠慮;〓(とう)小平改革が開く史上空前の「腐敗の時代」
「成長の落とし穴」に陥った政権維持戦略の末路 ほか)




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