ザメンホフ。確か中学時代に出会った懐かしい名前である。それから幾年月を経たが、かれの偉業がまだ健在であることをGoogleが改めてここに示した。
私の記憶では、ザメンホフの高邁な志に対して、そのような試みを嫌った彼の父は幾度となくエスペラント語の創作ノートを破り捨てた。しかし、そのたびにザメンホフは、再度一からエスペラント語造りに取り組み、その言語体系を作り上げた・・・・
と私の記憶の中には残っているのだが、残念ながらこの事実はWebでまだ確認できていない。ついに、ある記憶と別の記憶が交錯し、新しい物語を作り出す年連になったのかと一抹の不安がないわけではないが、きっとウン十年前の記憶が正しいと信じる。
そうすると、ザメンホフという人は語学の才能と世界のだれもが同じ言語体系のもと、自由に話ができる平和な世の中を作り上げようとした信念の人である。この信念に答えるように、世界に100万人のエスペランティストがいるとは本当に驚きである。
複雑化した一触即発の現代においては、世界の人々がフランクに話し合うことが求められる。これが、こんなに多くのエスペランティストがいる理由でもあるのだろうか。
Wikipediaより
エスペラントを話す者は「エスペランティスト」と呼ばれ、世界中に100万人程度存在すると推定されている(使用状況を参照)。
母語はロシア語だったが、ポーランド語、ドイツ語も流暢に話し、後にはフランス語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、英語も学んだ。さらに彼はイディッシュ語、イタリア語、スペイン語、リトアニア語にも興味を持っていた。
ザメンホフは1859年にポーランド北東部のビャウィストクで生まれた。当時、ポーランドは帝政ロシア領で、町の人々は4つの主な民族(ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、イディッシュ語を話す大勢のユダヤ人)のグループに分断されていた。ザメンホフはグループの間に起こる不和に悲嘆し、また憤りを覚えていた。彼は憎しみや偏見の主な原因が、民族的・言語的な基盤の異なる人々の間で中立的なコミュニケーションの道具として働くべき共通の言語がないことから起こる相互の不理解にあると考えた。
ワルシャワの中等学校に通いながら、ザメンホフはある種の国際語を作ろうと試みた。それは文法が非常に豊富な一方で、大変複雑なものでもあった。ザメンホフは(ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語と共に)英語を学んだ際に、国際補助語には動詞の人称変化は必要ではなく、比較的簡単な文法を持ちながら、語の新しい形を作るのに接頭辞・接尾辞を幅広く用いるようなものでなくてはならない、という構想を固める。
1878年までにザメンホフの「リングヴェ・ウニヴェルサーラ」(普遍語)はほとんど完成しかけていたが、若すぎたために著書を出版することができなかった。卒業後すぐにザメンホフは医学を、最初はモスクワで、次にワルシャワで学び始める。1885年には大学を卒業し、眼科医として開業する。患者を治療する傍ら、ザメンホフは国際語の計画を進める。 |
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