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軍隊生活と戦友会 畑 偕夫 | |
軍隊生活について 10.初年兵教育1期の検閲が終わった頃、動員下令、部隊は比島ルソンへ派遣されることになり8月10日出陣して行った。同年兵の約400名も、戦友とともに比島へ渡った 11.軍隊の中に居ると情報が全くない。戦況がどうなっているのかも、わからない。寝ること、と、食べることしか楽しみない特別な世界である。 12.当時既に本土決戦の方針が確定しており、山下将軍に率いられた戦車第2師団(撃兵団)もしょせん捨て石に過ぎなかった。沖縄戦も時間かせぎの作戦であった。 13.閑休話題、ここで満州の体験を書いておく。到着した2月は零下15度くらい。ペーチカと防寒具でしのげるが、ないと凍傷になる。夏は暑いが湿気がないので、木陰は涼しい。夜にはもう秋の気配である。北に位置しているので夏の日暮は遅い。夜の点呼も9時、外で行う。印象的なのは、あのまっかな夕陽である。忘れることが出来ない。 |
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戦友会について 1.私の所属していた満州第205部隊(機動砲兵第2連隊)は昭和19年比島のルソン島に出陣していった。その戦闘は苛烈をきわめ、1279名の将兵で、生還した者は180名。85%の戦死比率である。 2.このため戦友会の結成が遅れ、漸く昭和58年に至って、最初の慰霊祭が、姫路護国神社で挙行された。私は幸運にも、このことを知り、第1回目から参加した。生き残った者の当然の勤めとして、同年兵、戦友の冥福を祈ってきた。甲幹組では私と藤本光弘君が参加した。 3.一方、満州に残った者は、満州第13044部隊として編制された。ソ連参戦により、捕虜としてシベリア抑留を余儀なくされた人達の戦友会(梅友会)が出来た。私は杉浦正徳氏の紹介で10回目から参加している。いろいろとシベリア抑留の実態を聞くにつれ、大変だったことを実感する。 4.以上2つの戦友会で交流をしている内に、残った同年兵で戦友会を作ろうという話が持ちあがり、平成2年に最初の係りを持った。信太山同年兵会である。信太山に入隊した500名のうち、400名は比島で戦死した。初年兵の生存者は、朝井博一君、足立薫君、山本義一君、田口茂君ら6人である。 5.会員の大半は甲幹(内地で終戦)と乙幹(ソ聠抑留者)と、動員下令の時満州に残った戦友たちである。甲幹の名簿が見つかって、仲間が増えた。以来毎年同年兵会の集りを持ち、旧交を温めている。 6.朝井博一君は数少ない、ルソン同年兵の生き残りの1人である。西脇の出身で、戦後加古中の畑を尋ねて話したのが、交際のはじまりである。自らも、その体験手記「自走砲と初年兵」を出版している。 7.平成9年11月、「信太山同年兵の記録」を編集200部発刊した。殆んどの同年兵がルソンの土となっているため、記録が少なくて淋しい。ソ聠抑留の体験談を、内地組の中野学校、憲兵隊で補ったが今ひとつである。 8.平成11年11月、丁度その頃、杉谷盛雄氏の「浄土の叫び」のルソン戦記を読み感銘した。朝井氏と相談し、「ルソン戦記、戦車第2師団の記録」を編集、300部発刊した。杉谷氏の記録を巻頭に揚げ、各部隊の連隊史などの作品を集め、漫画さし絵、各種データーを加え、充実したものとなった。 9.平成19年、205部隊の戦友会は解散し、ソ連抑留者の梅友会も村井末男君の死亡で、自然消滅した。信太山同年兵会も、会員の年令から終止符を打つ日が近づいている。 10.戦友もだんだん欠けて行く。そのスピードが速くなり、私の番が来るだろう。 |
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昭和21年3月 軍隊生活の思い出 我が国から軍隊は永遠に消えていくであらう。あの勇ましい、軍人姿も戰爭の進展につれてだんだん服装も精神も乱れて、敗戦のいまわしい情景を呈した。当然の結果とは言え、淋しく悲しい。然し軍隊生活は私にとっては決して無益ではなかった。 |
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